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伊藤新道復活プロジェクトの記録2022|父から受け継ぐ意思と景色

公開日test:20221129
作成日test:20221129
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2021年より「北アルプスに冒険や発見に満ちた新たなプレイグラウンド」を作る、また「利用者自身が維持管理に参加できる登山道」を目標に立ち上げた伊藤新道復活プロジェクト。行政の助成金やクラウドファンディングによる皆様からの多大なご支援によって、山小屋・登山者・行政が三位一体となった異様な熱感を伴ったムーブメントとなりつつある。 2年目を迎える今年は鉄砲水で損壊した第一吊り橋の補修に始まり、第二吊り橋(旧第三吊り橋)の架橋、第三吊り橋(旧第五吊り橋)の架橋、またガンダム岩へのタラップの設置を行った。この記事はその施工の記録である。 ”オリジナル”の伊藤新道とは。断片的な情報から輪郭を描いていく。 高低差を感じない、極快適な登山道 ”オリジナル”の伊藤新道を築きあげた伊藤正一(※1)も存命でなく、1957年頃の作道(つくりみち)を知るもの、またそのころ通行した人々の記憶も薄れていっている。 一体”オリジナル”の伊藤新道はどのような道だったのか。 少ない資料と、僅かに残された桟道のアンカーなどを検証するところから始めたことで少しずつ”オリジナル”伊藤新道の輪郭が見えてきた。 どうやら当初は、湯俣川(ゆまたがわ)の水量の増減や鉄砲水を意識して、河川部の大部分で平水時の水面から6、7メートルのところに水平の桟道や登山道があったようだ。また、ゴルジュ(※2)や滝で行き詰った箇所に吊り橋をかけまた対岸に水平歩道が続くという、極快適な道だったようである。 当時の三俣山荘で働いていた古老曰く、「登りは 4 時間、下りは急ぎゃあ 2 時間だったな」というのも、推測が合っていれば頷ける。 (※1)1923-2016年、長野県松本市生まれ。1946年、三俣蓮華小屋(現在の三俣山荘)、水晶小屋を譲り受け、黒部の山賊たちの協力を得て、湯俣山荘、雲ノ平山荘を次々と建設。1956年、三俣山荘と雲ノ平山荘へのルート『伊藤新道』が完成。黒部源流の美しさに見せられた伊藤さんの「雲の平の絶景を見せたい」という想いで作られた。 (※2)切り立った岩壁にはさまれた深い谷(峡谷)のこと 謎が深まる65年前の工法 ”オリジナル”伊藤新道の工法について、今回の架橋工事に携わった河東工業の職人たちと一体当時はどのようにしていたのか幾度となく話題になった。今のテクノロジーや機材をもってしても難易度が高い伊藤新道の工事。クライミング技術の必要な個所へのアンカーの打ち込み、ケミカルアンカーのない時代に何で固定していたのかなど謎は深まるばかりであった。ある職人は「アンカーの固定なんか膠(にかわ)しかなかったんじゃないかなぁ」と言う。膠とは鹿や動物の軟骨で出来た古来の接着剤である。 1955年 伊藤新道仮設橋の架橋作業 伊藤新道の開拓 1955年 伊藤新道開通時(赤沢付近にて)...

by .HYAKKEI編集部
November 29, 2022

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