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扉の向こうの絶景に魅せられた人々 蝶ヶ岳ヒュッテ物語

公開日test:20190924
作成日test:20190924
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北アルプス一の眺望と名高い蝶ヶ岳ヒュッテは、表銀座縦走の拠点としても人気の高い山小屋。今年で創業60周年を迎えるヒュッテの2代目オーナー・神谷圭子さんの想いと、そこで働く小屋番たちのストーリーを取材しました。 いつからそこにあるのだろう 高いたかい山の上に山小屋が建っている 木を切り、運び、すべて人力で建てた小屋 それは、人々の無限の好奇心と、野望と、情熱によって築かれた天空の城 常念岳の南の稜線上、蝶ヶ岳の山頂直下に「蝶ヶ岳ヒュッテ」が建っています。山小屋は普通、稜線上と言っても風雪をしのぐために、少し窪んだ場所に建てるといいますが、蝶ヶ岳ヒュッテは見事に稜線上に建てられています。雨も風も吹きさらし。開拓者は、どうしてそんな過酷とも思える場所に山小屋を建てたのでしょうか。 開拓者の情熱 「もともと、父は蝶ヶ岳の手前の大滝山で山小屋をやっていたんです。若い頃、蝶ヶ岳に初めて登った時に、“こんなに美しい景色の場所があるんだ”と感動し、いつかここに山小屋を建てたいと心に決めたと言います」 昭和30年代に撮られた蝶ヶ岳からの穂高岳・槍ヶ岳連峰(先代オーナー撮影) なぜこの場所に山小屋が建てられたのか?そもそもの問いに答えてくれたのは、蝶ヶ岳ヒュッテの現オーナー・神谷圭子さん(以下、圭子さん)。 蝶ヶ岳ヒュッテオーナーの神谷圭子さん。松本市にある蝶ヶ岳ヒュッテ・大滝山荘連絡事務所にて 蝶ヶ岳ヒュッテは圭子さんの父・中村義親さん(以下、先代)が建てた山小屋。北国街道村井宿の名主である中村家は財力があり、おじいさんは、槍ヶ岳の殺生小屋を管理していたと言います。さらに、昭和の初めには大滝山の大滝小屋(現大滝山荘)を譲り受け、2軒の山小屋を運営するに至ったそうです。 大正時代の殺生小屋の宿帳。住所の下に階級の記入欄がある 時は戦後の登山ブーム。山好きの間でも特に財力を持った男たちが次々と山小屋を建てる“山小屋戦国時代”のような時代だったと言います。当然、美しい景色を持つ蝶ヶ岳は多くの人の憧れの的でした。 夢を実現するため、いち早く行動に出た先代は、県やあちこちの関連機関に掛け合い、山小屋建設の許可を取得。小さなベースキャンプひとつから建設工事が始まり、整地・製材・輸送と、3年の歳月を経て、昭和34年(1959)、ついに蝶ヶ岳ヒュッテが完成しました。 完成当初の蝶ヶ岳ヒュッテ(奥)。手前の写真右から2人目が先先代 山小屋を営む家に生まれ育った圭子さんですが、意外にも、蝶ヶ岳に初めて登ったのは大学生になってからだと言います。 「高校生の頃まで、父には”蝶ヶ岳は遊び場ではない。お父さんの仕事場だ。来るんだったら遊びに来るんじゃなく、仕事として来い。”と言われていたので一歩も近付けませんでした。それが、大学に入った途端“戦力”ですよ。夏休みに友達と遊んだ記憶はほとんどありませんね。」 卒業後は普通の会社に就職したい思ったこともありましたが、そのままヒュッテの一員となった圭子さん。一方で先代は、客室を増築し、厨房、ホールを新築するという大工事を行い、蝶ヶ岳ヒュッテを200人規模の山小屋へと整えました。 しかし、先代は長年の苦労がたたったのか、改築工事からさほど時を経ないうちに、不治の病に倒れてしまいました。その後、平成2年(1990)に先代は帰らぬ人となり、圭子さんは、26歳の若さで蝶ヶ岳ヒュッテの2代目オーナーとなりました。...

by admin
September 24, 2019

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